『トム・ソーヤーの冒険』で有名なマーク・トウェイン(1835年–1910年)のエッセイに「理容師について」(About Barbers)という一文があります。
「万物は変化する。だが、理容師と、そのやり方と、その取り巻き連中だけは別だ。これらは決して変わることがない。」
(原文:All things change except barbers, the ways of barbers, and the surroundings of barbers. These never change.)
という冒頭から始まるエッセイで、トウェインらしい毒のあるユーモアと社会風刺に富んだ一文で、当時(執筆は1871年、1875年とも)の理容室の情景をコメディータッチに描いています。

万事には終わりがあるものだが、理容師の「お喋り」だけは例外である。
私は昨日、髭を剃りに行った。椅子に座ると、理容師は私の首に、死装束のような白い布をこれでもかと巻き付けた。それから、私の鼻の穴に太い指を突っ込んで頭を後ろに固定すると、まるでこれから私の首を刎ねる準備でもするかのように、巨大なカミソリを革のベルトで研ぎ始めた。
準備が整うと、彼は石鹸の泡をたっぷり含んだシェービングブラシを取り出した。そして私の顔じゅうに、目も鼻も口も構わずに塗りたくった。私が何か文句を言おうと口を開けた瞬間、彼はその隙を逃さず、泡だらけのシェービングブラシを私の口の中に突っ込んだ。私がゲホゲホとむせている間に、彼は満足げに語り始めたのだ。
「お客様、昨日行われた競馬の結果をご存知ですか? ああ、あそこの馬はダメですね。そういえば、今の政府のやり方ときたら……」
彼は、私が全く興味のない話題を、機関銃のように喋り続けた。
彼は私が椅子に縛り付けられ、口を泡で塞がれているのをいいことに、一方的に議論を展開するのだ。
ようやく髭剃りが始まったが、そのカミソリの切れ味といったら、まるで「裏庭で拾ってきた錆びたクワ」のようだった。彼は私の頬の皮を削り取るように、力任せにカミソリを滑らせた。私の顔からは血が滲み、痛みで涙が出そうになった。しかし彼は、私の苦痛などどこ吹く風で、次は演劇界の噂話について熱弁を振るい始めた。
「昨夜の芝居は見ましたか? 主役の演技がひどかった。私ならもっとうまくやれますよ。そうそう、このカミソリですが、これでも最高級品なんですよ。お客様の肌が少々……」
彼は自分のカミソリの悪さを棚に上げ、私の肌の質に問題があるかのような言い草である。ようやくすべての工程が終わったとき、私の顔はまるで戦場から帰ってきた兵士のように傷だらけだった。
仕上げに、彼は得体の知れない強烈な匂いのする香水を私の顔に振りかけた。それは、安物の花をドブ水に浸したような、鼻が曲がるほどの悪臭だった。
私はフラフラになりながら椅子を立ち、代金を払った。外の新鮮な空気を吸ったとき、私は心から誓った。
「次に髭を剃るときは、いっそ自分で喉を掻き切ったほうが、この理容師にかかるよりはマシな死に方だろう」
この時代の理容師は、トウェインのような少し気難しい作家にとっては、まさに「天敵」のような存在だったのがうかがえます。ただしトウェインが理容師をとくに嫌っていたというわけではありません。
トウェインのエッセイには短文のものも多く、
悲しみは、ひとりで充分に味わうことができる
しかし、喜びを充分に味わうためには
誰かに手伝ってもらわねばならぬ
といったまともな名言もあるものの、
どうしてわたしたちは
人が生まれるときに喜び
死ぬときには悲しむのだろう
その本人でないからだ
といったふざけたものもあり、後者の方が圧倒的に多いのです。
こんな調子で理容師以外にも、キリスト教や医師など、さまざまなものを皮肉っています。トウェインのエッセイが好まれているのは、自虐ネタが面白いからかもしれません。
冒頭の一文で指摘した「理容師は変わらない」に関しては、客との会話を大事にする姿はいまの理美容にも通じるものがありますが、やり方は科学技術の進歩にともない、150年前とは様変わりしています。また、この一文から当時は髭剃り目的で理容室にいく客が多かったのがうかがえます。
それにしても、この一文に関しては表現が少々、大袈裟すぎるようですが。

