明治維新や文明開化によって、日本の多くの古い風習が見直されました。そのなかでも、ザンギリ頭(洋髪)は文明開化の象徴として強い存在感を放っています。
丁髷(ちょんまげ)からザンギリ頭への髪型の変化は男性に限られたもので、女性は明治維新後も江戸時代と変わらず日本髪を結っていました。
幕末期にはペリー提督をはじめ、多くの外国の外交官や貿易商が日本を訪れました。彼らの多くは清国やインド、東南アジアなどを歴訪していたため、国ごとの風俗の違いには驚きつつも一定の理解を示していたようです。頭髪に関していえば、清国では辮髪(べんぱつ)、インドではターバン、そして日本では丁髷という具合でした。
当時、幕府や一部の有力な藩は、配下の侍たちを欧米に派遣しており、彼らは概ね歓迎されたようです。しかし、その頭に結った丁髷は、しばしば嘲笑の対象となりました。丁髷は「頭の上にピストルがのっている」「豚のしっぽのようだ」と揶揄されることもあったと伝えられています。欧米に派遣された侍たちは、こうした反応に敏感に気づいていた可能性が高いといえます。
その好例が、明治維新で活躍した岩倉具視です。岩倉は欧米視察のため渡米した際、現地で歓声を受け大歓迎されていると感じていましたが、先にアメリカに渡っていた子息から「笑われていた」と知らされ、現地で断髪したといいます。
諸外国を巡る外交官や貿易商とは異なり、欧米の一般市民にとって丁髷は非常に奇異なものに映っていたようです。
当時の外国人が批判的に捉えていた日本の風習の一つに、男女混浴の習慣がありました。これはキリスト教の価値観に反するものであったため、明治政府は男女別の浴槽を設けたり、入浴時間を分けたりするよう指導を行いました。また、火災が多発していた背景から、防火の観点でも浴場の設備改善が進められました。
日本人の裸体に対する感覚も、来日した欧米人には驚きだったようです。幕末に来日したハインリッヒ・シュリーマン(後のトロイ遺跡発見者)は、護衛付きで湯屋の前を通った際、珍しい外国人を一目見ようと裸のまま湯屋から出てきた人々の姿に驚いたと記録しています。