『浮世床』鬢五郎(びんごろう)ばなし

柳髪に託す江戸庶民の風景

『浮世床』は、『浮世風呂』と並ぶ式亭三馬の代表的な滑稽本です。

『浮世風呂』の姉妹編として、文化8年(1811年)および9年に初編・二編が執筆され、翌文化10年に刊行されました。

版本では、自序に『柳髪新話』、本文には『柳髪新話浮世床』と記されており、『浮世床』というタイトルは通称ですが、現在では広くこの呼び名で知られています。

「柳髪」とは、風にたなびくしなやかな髪を指し、とくに女性の長く美しい髪のたとえとして用いられます。しかし、この作品は女性の髪には関係がありません。むしろ、風に吹かれて右往左往する江戸庶民の姿を、柳髪になぞらえたのかもしれません。

物語は、髪結の鬢五郎(びんごろう)とその弟子・留吉を中心に、ご隠居、貧乏学者、熊、さえない伊達者など、裏店に住む人々と思われる登場人物が、床屋(髪結床)に集まり、軽妙なやりとりを交わしながら江戸の世相を描き出します。

『浮世床』に登場する噺のいくつかは落語の演目としても知られています。むしろ、この本全体が「落語の台本」として読めるほどです。深い意味はないけれど、思わずニタっと笑ってしまう──そんな軽妙な面白さが詰まっています。

三馬は多才な人物で、滑稽本の執筆にとどまらず、浮世絵も描いていました。また、「江戸の水」と呼ばれる化粧水など、薬種の製造・販売も行っており、自著にさりげなくその宣伝を織り交ぜるほどの商才の持ち主でもありました。『浮世床』が書かれた当時は、古本屋を閉めて薬種屋を始めた頃で、作中にも販売したばかりの「江戸の水」が登場しています。

『浮世床』は、江戸庶民の笑いや空気感を今に伝える貴重な作品です。その背後には、したたかで洒落っ気たっぷりの作者・式亭三馬の姿と、当時の髪結や床屋の様子も垣間見ることができます。式亭三馬が暮らしていた江戸・本石町(現在の日本橋本石町)周辺の髪結床事情が反映されているのかもしれません。

本稿では、『浮世床』に登場する鬢五郎とともに江戸時代後期の江戸の町の髪結、髪結床に関する話を拾い出して紹介します。『浮世床』の鬢五郎がこの著作の主人公かというと、そうでもなく狂言回し役であり、作者・式亭三馬の代弁者でもあります。主人公は『浮世床』に集う裏店住まいの庶民です。

多様な髪文化

「尺も短く。寸も長きあるは。」という一文から始まる『柳髪新話自序』には、江戸の髪結床や流行の髪型、さらには中国・清の剃頭店についての記述が登場します。

百人いれば百種の髪型があり、同時に百人いれば百人それぞれに癖がある――それこそが「浮世の人情」であり、式亭三馬の描く『浮世床』なのです。

この自序の中で三馬は、自らを「退屈しのぎに、短き才で、長物語を記す」と自嘲気味に紹介しています。彼の筆致からは、当時の庶民生活や風俗をユーモラスに描き出す、独自の視点が感じられます。

興味深いのは、清の時代の剃頭店についての記述です。自序では「唐山」と書いて「もろこし」と読ませていますが、これは清王朝の辮髪文化を指しています。清の時代、征服者である女真族が漢民族に辮髪を強制し、そのための頭髪処理を行うのが剃頭店でした。

『浮世床』が書かれた19世紀初頭には、こうした清国の文化が日本でも知られていたことがわかります。三馬は自序の中で、「子どものように髪が少ないのを喜ぶ毛唐人(清の人々)」と、「髪が厚くて野暮だと嫌がる日本人」を対比しています。ここで使われる「かかあ梳ね(たばね)」という言葉は、原文では「媽媽梳」と書かれ、ルビがふられています。

江戸時代前期の17世紀後半になると、男性の髪型として月代や丁髷が定着し、日常の手入れは家庭内で行われていました。所帯持ちの男性であれば、妻が髪を結い、月代を剃るのが一般的でした。したがって、髪結床を利用するのは主に独り者やおしゃれに敏感な者だったのです。『浮世床』に登場する客人たちも、こうした人たちです。

一方、三馬は清国の男性たちは家族が頭を剃るセルフケアを「粋だ」と喜んでいた、と描いています。これが事実かどうかは定かではありませんが、三馬が描いたのは、異文化の違いを皮肉とユーモアで包み込んだ風刺だったのかもしれません。

まさに「尺も短く。寸も長きあるは。」のとおり、世の中は一様ではありません。人も文化も、髪型一つとっても千差万別。その多様性を、式亭三馬は『浮世床』を通して語りかけているようです。

隣は湯屋

『浮世床』は、床主の鬢五郎(びんごろう)と弟子の留吉が働く髪結床を舞台にした作品です。

ご隠居や旦那、裏店住まいのさまざまな客が入れ替わり訪れ、小気味よくテンポの良い会話を通じて物語が展開していきます。登場するのはいずれも個性豊かで、どこか風変わりな人ばかりです。

鬢五郎の腕は良く、流行の髷を結っていたのでしょう。通人気取りの客も多く訪れ、店は大繁盛しています。なかには順番をとりに来る旦那の小僧や、櫛売りの商人、いまで言えば美容ディーラーにあたる営業マンまでやってきて、店は賑わいを見せます。

作中の髪結床の場所は、著者・式亭三馬が暮らしていた日本橋界隈の設定と推察されます。

江戸の町を紹介するガイドブックには、髪結床は「三人立ち」、つまり師匠と職人、そして弟子の三人で切り盛りするのが普通だと記されています。しかし、『浮世床』では師匠と弟子の二人です。「三人立ち=標準」というイメージには例外も多かったことがうかがえます。なかには複数の職人を雇う大きな床もあり、店での仕事だけでなく、得意先への出張髪結を行うこともあったようです。

また、『浮世床』では隣が湯屋(銭湯)という設定で、ご隠居が朝一番にやってきて、まだ寝ていた鬢五郎を叩き起こし、準備が整う前に湯屋に向かうという描写があります。

一部のガイドブックでは、髪結床と湯屋は隣接して「ワンセット」になっていたと紹介されています。これは、床屋株と湯屋株が「一町一株制」に基づいていたことを踏まえた記述と思われます。ただし、すべての町に髪結床や湯屋があったわけではありません。片町など住人の少ないエリアでは、どちらの施設も存在しないことが多く、特に湯屋は髪結床よりも数が少なかったとされています。

とはいえ、人口の多い日本橋界隈では、『浮世床』のように湯屋と髪結床が隣接していた可能性は高いと考えられます。どちらの営業も朝早くから始まっており、当時の生活様式を反映していることがうかがえます。いまの銭湯は午後3〜4時ごろから、理美容室は午前10時ごろの開店が主流ですが、江戸時代はまったく異なる時間帯で賑わっていたのです。三馬による実見が活かされた描写といえるでしょう。

髪結賃は地域、時代によって変わる

式亭三馬が描いた『浮世床』では、髪結の料金が「32文」と記されています。これは、19世紀初頭の日本橋界隈にあった髪結床の実際の相場だったと考えられます。

ただし、この「髪結賃」は、同じ幕府直轄領内でも地域によって異なっていました。他藩であれば、当然別の料金体系だったはずです。加えて、時代が下るごとに料金は上昇する傾向がありました。

髪結業が成立したのは戦国時代の末期とされ、その頃は「一銭剃り」と呼ばれており、月代(さかやき)を剃って髪を結って1銭だったといわれています。江戸では17世紀初頭から髪結の仕事が行われており、当初は16文程度。これがやがて24文、28文へと上がり、19世紀初頭の『浮世床』が描かれた時代には32文となっていたようです。

江戸の町では、町奉行によって髪結賃が定められていました。これは、火事などの緊急時に、髪結職が町役所の書類を持ち出す「駆け付け役」という課役(かえき)を負っていた見返りに、料金が規制され、髪結の生活が守られていました。なお、この規定は町奉行支配下の江戸市中にある髪結床にのみ適用されました。

32文はあくまでも「最低料金」であり、ほとんどの客はこの料金で髪を結ってもらっていたようです。しかし、中には『浮世床』のご隠居のように値切る客もいれば、通人気取りで流行の髷(まげ)を求める客が心づけを渡すケースもありました。

同じ幕領でも、自身番(町の警備や火の見番)のない地域では、髪結床が夜回りなどの警邏を行うこともありました。このような町では、髪結賃が異なっていた可能性もあります。たとえば江戸近郊の品川宿では、髪結床に夜回りの課役があり、女性が床主になる際は男性の後見人が必要で、その後見人が夜回りを担っていたそうです。品川宿は町奉行ではなく道中奉行の支配下にありました。

また、19世紀中ごろの幕末期になると、開国による貿易の開始とともに物価が急騰し、髪結賃も36文、40文、やがては56文にまで上昇したといわれています。髪結賃は、当時の経済動向、つまりインフレと連動していたことがうかがえます。

剃刀研ぎは髪結がプロ

日本古来の和剃刀は、西洋で使われている両刃の剃刀とは異なり、片刃であるため比較的研ぎやすい特徴があります。素人でも、剃刀の斜面側を砥石に当てて研げば、切れ味が戻るといわれています。

江戸時代には、夫婦者であれば妻が夫の月代を剃り、少年がいればその中剃りを行うのが一般的でした。髪結床の世話になるのは、独り者や、髷にこだわる洒落者、通人といった人々でした。

しかし中には、剃刀を上手に研ぐのが苦手な女将もおり、そのような人は、懇意にしている髪結床に剃刀研ぎを頼んでいたようです。そうした情景が、式亭三馬の『浮世床』に描かれています。

『浮世床』では、床主の鬢五郎と、床にたむろする暇人たちがどうでもよい話を交わしている場面に、剃刀箱を持った丁稚が現れます。そして、「鬢さんにご無心ながら、ご面倒でもこの剃刀を研いでおくんなせえと、おかみさんからのお頼みです」と、剃刀研ぎを依頼します。鬢五郎は「おかみさんのご無心なら早速承知せずにはなるめえ。ちょっと待ってな」と、快く引き受けます。

この丁稚は、髪結床の障子を開けるとき、「六つむらさき、七つ南天、八つ山ざくら…」と数え歌を口ずさみながら入ってきます。『浮世床』の中では、暇人たちもそれぞれが知っている数え歌を披露して盛り上がる場面が描かれています。

やがて剃刀を研ぎ終えた鬢五郎は、「小僧さん、剃刀をやろう。なんぞおいしいものがあるのなら押しかけ客に参ります、とおかみさんにいっといてくれ」と、研いだ剃刀を箱に収めて渡します。すると小僧は「‥ぶらヤアイおゝし。」(原文のまま)と言い残して帰っていきます。なんとも不思議な小僧です。

鬢五郎とおかみさんは、日頃から懇意にしている間柄であることがうかがえます。剃刀研ぎが苦手なご婦人たちは、髪結床や、腕の良い知人に頼んで剃刀を研いでもらっていたのでしょう。

本稿の冒頭で「日本古来の和剃刀」と述べましたが、正確には剃刀は大陸から伝来したものです。仏教の伝来とともに、日本に持ち込まれたと考えられています。

髪結床と器具商人の駆け引き

令和の現在、理美容サロン業界の流通はインターネットが主流になりつつあります。しかし、ひと昔前まではディーラーの営業担当者が一軒一軒の理美容室に出向き、注文を受けて回るのが一般的でした。こうした光景はいまでも一部に残っていますが、徐々に過去のものとなりつつあります。

実はこの「注文伺い」の商習慣は、髪結の時代である江戸時代から存在していました。その様子は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』にも描かれています。

たとえば「江戸の髪結床と剃刀研ぎの関係」で登場した丁稚が、鬢五郎の髪結床を退出したあと、入れ替わりに風呂敷包みを背負った若衆が現れます。彼の名前は「櫛吉(くしきち)」といい、名前のとおり櫛を扱う商人です。

式亭三馬は登場人物に特徴的でわかりやすい名前をつけることが多く、たとえば食鳥肉を扱う商人には「しゃぼ八」と名づけています。

櫛吉は「鬢さん、透きはよしか」(原文のまま)と、梳き櫛の注文伺いに訪れますが、鬢五郎は「さっき櫛八が来たけど断った」と答え、梳き櫛は間に合っていると伝えます。続けて、「間歯(あいば)はあるか」と尋ねます。

櫛吉と櫛八、同じ櫛を扱う同業者が設定されており、鬢五郎の髪結床には複数の業者が頻繁に訪れている様子がうかがえます。櫛に限らず、剃刀や砥石などの道具、元結や鬢付け油といった消耗品を扱う業者もいたことでしょう。

ここで鬢五郎が尋ねた「間歯」とは、「合歯(あいば)」のことで、目の細かい櫛を指します。梳き櫛も細かい目ですが、間歯はそれより高級品とされています。櫛吉が風呂敷から取り出した間歯を見て、鬢五郎は「こんな櫛は使われねえ」とケチをつけつつも、「いくらだ、150か」と買う気も見せます。値切るためにわざと難癖をつけているようにも見えます。

櫛吉は「200だ」と返します。値段の単位は「文」です。櫛吉は200文でも50文安い売値であると主張しますが、鬢五郎は「250の間歯には見えねえ」と反論します。こうして値段交渉は続いていきます。

『浮世床』では、櫛商人と髪結床のあいだで繰り広げられる値段交渉が描かれますが、実際の現場では髪結業界特有の数字の符丁が使われていた可能性もあります。ただし、符丁は地域や業種によって異なるため、読者にわかりやすく伝えるために単純な数字表現にしているとも考えられます。

交渉の末、櫛吉は「おまへはほんとう。こっちは嘘よ」と言い残し、荷を仕舞って背負い、帰っていきます。結局、値段交渉は不調に終わったのでしょうか──髪結と出入り商人の人情と駆け引きが垣間見える一幕です。

「天窓」を「あたま」と読ませる『浮世床』

「天窓」と書いて「あたま」と読ませる──そんな表現が式亭三馬の『浮世床』には頻繁に登場します。

舞台が床屋だけに、髪や頭にまつわる言葉が多く出てくるのは当然ですが、初めて読むと面喰ってしまいます。なにしろ「頭」という漢字も普通に登場するので、読み慣れていないと「ん?」と戸惑うのです。

手元の岩波文庫版『浮世床』(1928年刊、和田万吉校訂)では、「天窓」に「あたま」とルビが振られているため、意味が分かって読み進めることができます。とはいえ、現代の文庫本のようにスラスラと読めるわけではありません。

現在、「天窓」を辞書で引くと「てんまど」と読み、「屋根や天井に設けた窓」と定義されています。「トップライト」「スカイライト」「ルーフウィンドウ」など、洋風建築用語の訳語として紹介されることも多く、当然ながら「頭」とは無関係です。

おそらく、頭頂部を剃った月代(さかやき)の形が、空に抜けた“天窓”のように見えたため、「天窓」を「あたま」の当て字に用いたのでしょう。類似の例として、月代頭の別名「篦頭(へらず)」もあります。もっとも、「篦頭」は現代では使われていないため混乱は生じませんが、「天窓」は現在も建築用語として現役なだけに、余計にややこしく感じられます。

江戸の言葉遣いには、こうした遊び心や比喩が多く見られ、時代背景や文化を知る手がかりにもなります。

垢油とは? 再資源化の知恵

値段交渉の末、「おまへはほんとう。こっちは嘘よ」(原文のまま)と言い残して去っていった櫛吉に代わって、鬢五郎の髪結床にやってきたのは、股引姿の男でした。

「お寒うございます」とお愛想を言いながら、「アイ、まだ出てきませんか」「ハイハイ、さようなら、また今度」と床をのぞき込んで鬢五郎に声をかけただけで、すぐに立ち去っていきます。式亭三馬はト書きで、「油の垢買いのようで、カゴをかかげて走り去る」と記しています。

この男は、髪を梳いた際に櫛に付着する垢まみれの鬢付け油を買いに来た、もしくは譲り受けに来たと考えられます。垢油が何に使われたのかは定かではありませんが、何らかの目的があっての行動だったことは確かです。来てはみたものの、もらい受けるほどの量がなかった、ということでしょう。

江戸時代は、あらゆる物を大切にし、使い切るのが当たり前でした。利用できるものは何でも再利用しました。良い例が糞尿の買い取りです。近郊の農民が町家や屋敷、長屋を訪ねて買い取り、大家にとってはちょっとした小遣い稼ぎになったといいます。

思えば、戦後の昭和の混乱期にも似たようなことがありました。物資が乏しい時代、理容店で出た髪の毛を買い取る業者がいたと、ある古老の理容師が話してくれました。集められた髪の毛は、アミノ酸醤油の原料として販売されたそうです。髪はタンパク質でできているため、そんな用途があったのかと驚きました。

髪の毛は、実に多様な用途で活用できます。現代ではアミノ酸醤油は適していないかもしれませんが、髪の毛は油分を多く含むため、タンカー事故で原油が流出した際の吸収材としても用いられます。近年では「ヘアドネーション」として社会貢献にも役立てられています。

とはいえ、あの垢油はいったい何に使われていたのでしょうか——。

「腕より愛嬌」江戸の髪結文化

『浮世床』には、髪結の仕事について鬢五郎が語る場面があります。

弟子の留吉が外出している際、客人との会話で留吉の話題が出たあと、「髪結も辛い職だのう」と話を振られた鬢五郎が、その大変さを語りはじめます。

「辛いどころか、習いはじめたころは腰が痛くて、からっきし伸びねぇぜ。剃刀を持った手が棒のようになって、櫛に持ち替えるときに手こずるはナ。日がな一日、腰を折って俯いてばかりいるから、のぼせて目がくらむはナ」(※原文に近い形で引用、以下同)

これは、留吉のような見習い時代の苦労を語っているようです。

床に腰掛けた客の後ろに立ち、月代や髭を剃るには腰を屈めた姿勢が必要で、その無理な体勢が腰に大きな負担となります。

剃刀作業のあと、梳き櫛に持ち替える際にも苦労し、顔を上げると目まいがする――そのような経験談を語っています。鬢五郎は「習うより慣れだ」と締めくくります。

続いて、客人は髪結の仕事において、夏と冬のどちらがやりやすいか尋ねます。

鬢五郎は「どっちとも言えねぇ」と答えます。「夏は汗がたまって出るし、冬は手がかじかむ。夏の夜なべ仕事は蚊がうるさい。掻きたくても油手だから思うように掻けねぇ」と説明します。

話題は髪結稼業全体に移ります。

鬢五郎は「髪結というものは、場所をしようが、床を預かろうが、人の機嫌、気遣いをとらなきゃならねぇ」と言い、辻で営業する出床、得意先を回る回り床、あるいは髪結床での営業でも、客への気配りが欠かせないと語ります。

「客のなかには気難しい人もいる。十人いれば十色、それぞれに話を合わせなきゃならねぇ」と続け、「つまるところ、髪結は女郎と同じよ」と自嘲気味に言い放ちます。さらに、「自分の意見を持たず、客に合わせる『内股膏薬』がいいのよ」と述べます。

客人も、「腕がよくても仏頂面の髪結には行かねぇ」「世事に通じている髪結がいい」「愛嬌がなければだめだ」などと語り、要は「腕より愛嬌だ」と髪結の本質を評価します。これは、作者・式亭三馬の意図が強く反映された台詞でしょう。

さらに、「どんな名人でも歳をとれば駄目になる」と問われた鬢五郎は、「髪結は五十を越えちゃいけねぇ」と答えます。当時の50歳は、現代で言えば65歳から70歳に相当するかもしれません。

話は、髪結が代わることの難しさに及びます。
鬢五郎は「髪結が代わると勝手が違う。俺も代わりには結わせねぇ」と語ります。客人も「せっかく馴染んだ髪結が、鬢盥無尽で別の町に行ってしまう」と嘆きます。
鬢五郎自身も自分の髷は結えません。懇意にしている髪結に頼んでいるのでしょう。
やがて弟子の留吉が腕を上げれば、彼に任せる日が来るかもしれません。

「鬢盥無尽(びんだらいむじん)」の意味は明確ではありませんが、髪結職人が所属をまたいで稼働する仕組みだった可能性もあります。修行を兼ねて渡り歩く職人も多かったようです。

そんな話をしている最中、門の前で日向ぼっこをしていた男・蛸助が入ってきて、鬢五郎の活躍ぶりを明かします。
「この鬢公は如才ねぇ。五、六町預かり、床も三か所預かって、弟子も抱えてる。そのうえ、この床は自分でも手を下ろして、欲張るから金がうなる」

この蛸助の話が本当であれば、鬢五郎は相当なやり手です。
五、六町の回り床屋を任され、三か所の床も運営し、弟子も多く抱えています。初めは留吉との二人と思われていましたが、どうやら違うようです。
蛸助は「いずれは台箱が金銀瑠璃瑪瑙(るりめのう)の寄細工になるだろう」とも語り、鬢五郎の将来を予想しています。

さらに話題は、かつての髪結床の様子に移ります。蛸助は「昔の髪結床は、汚い手桶に水を汲んで、みすぼらしい小盥(こだらい)だった」と語り、鬢五郎の床が整っていることをほのめかします。

そして、髪結床の障子に描かれた「絵障子」の話へ。『浮世床』には複数の紋所の図案が挿絵として登場します。絵心ある式亭三馬ならではです。「絵障子」は紋所のほか、武者絵や達磨、海老、役者などが障子に描かれていました。これが床屋の名前の由来になり「達磨床」「海老床」などと呼ばれていました。
鬢五郎の床も絵障子があったと考えられますが、その絵柄は明示されていません。

『浮世床』は登場人物の出入りが激しく、話の展開も小気味よく、まるで落語のようです。
式亭三馬のフィクションではありますが、江戸後期の髪結、髪結床の様子を垣間見る貴重な資料ともいえます。